1.謎のベールに包まれた都、紫香楽宮。

当時、天皇は奈良(平城京)で政治を行っていましたが、天平12年(740年)に恭仁京(現在の京都府木津川市賀茂地区)に移ります。恭仁京の離宮(天皇が保養などのために一時的に滞在する施設)として建設され始めたのが、紫香楽宮です。

つまり、紫香楽宮は、もともとは、天皇の別荘?のようなものだったそうです。

その後、天平15年(743年)に恭仁京の建設が停止されることになり、次に都とされたのは、難波でした。

ところが、紫香楽宮の建設は引き続き進められ、大仏造りまで着手し始められます。

そして、天平17年(745年)正月に紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、正式な都となりました。

しかし、その年、山火事や、地震が相次ぎ、5月には平城京へ都が戻ったそうです。
遠い山奥にたたずむ信楽の地が都に選ばれた理由は謎ですが、遺跡の調査により、聖武天皇の並々ならぬ思いを注いだ仏都紫香楽宮造営の内容が明らかにされつつあります。

2.信楽焼のはじまり

造営の際に焼かれた瓦、須恵器などが遺跡から出土されていることから、信楽焼のはじまりとされていますが、陶器産地としてのはじまりは、13世紀後半とされています。
信楽の粘土は、古代琵琶湖の湖底堆積物が分布した地点で採られており、その成因は、花崗岩の風化生成物の堆積したものと考えられています。 結晶が荒い花崗岩は、風化しやすく、やきものに良質な土となります。

3.信楽焼の特徴

信楽焼の特徴は、「火色」の発色と、自然釉による「ビードロ釉」と「焦げ」にあります。また、粘土には、有機物や鉄分が多く含まれ、焼成後、ピンホールや鉄粉となって、表面に現れます。現在では改良が進み、様々な種類の陶土がありますが、基本的には、小石混じりのざっくりとした肌合いが、信楽焼の特徴です。
​土味、窯味の、味わい深さは、侘び寂びを好む茶人にも愛されてきました。

4.信楽焼の進化

江戸時代に登り窯が使われるようになってから、日常品がたくさん焼かれました。ライフスタイルの変化に合わせて、信楽の土もその形を自由に変貌していったのです。

たとえば...

●暖房具の「火鉢」は江戸時代から増産されつづけ、 戦後は全国生産高の90%を締めていた。(1950年代後半から1970年代にかけては電気、ガスの発達により減衰する。)

●1965年(昭和40年)ごろからは「植木鉢」が主力商品になる。

●陶器で作った「タヌキ」の置物、愛嬌があってひょうきんな「信楽たぬき」は、1951年、天皇が信楽へ訪問の際、 信楽の道沿いに「たぬき」を並べて歓迎したのが、一大ブームのはじまりです。
今日も「たぬき」は信楽のシンボル。
信楽のまちに入ると、あちこちに、狸の置物が目に入ります。

現代ではガーデニング用品、 食器、調理器、花器、建築用素材など、
ライフスタイルに合わせて、さまざまな製品が生まれています。